​8月の挨拶

8月のタイトル〖法鏡〗

このどころ梅雨すっかりと明け、30半場ぐらいの猛暑日が続くようになりました。

こう極端に暑い日が続くと、つい身延山での生活を思い出します。

身延山で生活していた時は

あるお上人さんによく「心の鏡を毎日磨いているか?」

と​言われていました。

当時はその言葉の意味がよくわからず、ただ「はい」としか答えられませんでした。

後日、禅の逸話が幾つも書かれている本を読んでいると

『南岳磨甎(なんがくません)』というお話を見つけました。

 

この逸話はある禅僧・南岳懐譲とその弟子・馬祖道一の話です。

ある時、馬祖が坐禅をしていると師である南岳がなぜ坐禅をするのか問いました。

すると、馬祖は「仏になるために坐禅をしています」

その答えを聞いた南岳はおもむろに近くにあった瓦を手に取り磨き始めました。

坐禅をしている隣で瓦を黙々と磨いているので気になって仕方ない馬祖は師に声をかけました。

 ・馬祖「お師匠様は何をされているんですか?」

 ・南岳「瓦を磨いているんだ」

 ・馬祖「なぜ瓦を磨いているのでしょうか?」

 ・南岳「綺麗に磨いて鏡にしようかと思ってな」

 ・馬祖「お師匠様、お言葉ですが瓦はいくら磨いたところで

     鏡にはならないと思うのですが…」

 ・南岳「確かにその通りだな。馬祖よ、

     そのことが分かっているのに先程は仏になるために

     坐禅をしているなんていったのだ?」

これを聞いた馬祖は困惑しました。

「​では、どうしたら​仏になれるのでしょうか?」

この質問に師は、

「お前の坐禅は、座った姿の仏様を手本にしているだけに過ぎない。

そもそも坐禅の姿が仏様なのではない

坐禅という姿だけが仏様だと思い込んでしまったら、いつまでたっても坐禅とは何か、

仏様とは何か分からないままだ。」

とお答えになりました。

以上が『南岳磨甎』の話です。

禅では、坐禅は非常に大事な修行方法とされています。

その坐禅も「仏になる為の手段」として捉えてしまうと

途端に坐禅ではなくなってしまう。

​仏様の行いをすればその時、人は仏様を行じているのであります。

つまり、何か別のものになろうとするのではなく

自身が、自身のあるべき姿を全うすれば

それが、仏様の姿なのだと南岳は伝えたかったのだと思います。​

では、私たちはありのままの自身を

全うするにはどうしたらいいのでしょうか?

それは自分自身の本当の姿を知らなければならないのです​

その為に必要なことが仏教を学ぶことなのです。

お釈迦様はお亡くなりになる直前に

「仏教は法鏡なり」とお言葉を遺されました。

法とはサンスクリット語でダルマといいます

日本語では真実という意味です

なので法鏡とは「真実を映す鏡」ということになります。

つまり「仏教は法鏡なり」とは

仏教を聞くことはありのままの自身を映す鏡を見ると同じことなのです。

ただ、仏教を1人で学ぶのはなかなか難しいかと思います

そこで私たち日蓮門下はお題目を唱えるのです。

お題目の「南無妙法蓮華経」を唱えることによって

お釈迦様の教えを身に授かることが出来るのです。

次に身延山に参詣させて頂いた際には

「お題目を唱えてます」と言いたいと思います。

それではこれで月の挨拶とさせて頂きます。

合掌