​6月の挨拶

​※青文字は現代語訳になります。

6月のタイトル〖仏種〗

皆さん、こんにちは。

先日、曹洞宗に面白い禅問答を見つけましたので

少し長いですが紹介させて頂きます。

 

麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、

麻浴山に住む宝徹禅師は、夏の暑い日に、扇(おうぎ)で自身を扇(あお)いでいた。

そこに一人の僧が来て禅問答を始めた。

「風性常住・無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ」。

「風というものは常に存在している«風性常住≫、

風が行き渡らないところはない«無処不周»と言われています。

それなのに、和尚さんはどうして扇を使っておられるのですか?」

師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずと

いふことなき道理をしらず」と。​

すると宝徹禅師はこう応えた。「おまえさんは«風性常住»は知っていても、

«無処不周»の道理が分かっておらんな………」と

僧いはく、「いかならむかこれ無処不周底の道理」。

そこで僧は問う。「では、その«無処不周»ということは、どういうことですか?」

ときに、師、あふぎをつかふのみなり。

しかし、その質問に対して、宝徹禅師は無言のまま扇を使っているだけだった。

 

僧、拝礼す。

その時、はっと悟ることがあったのであろう、僧は礼拝したそうだ。

ここで話題にされている「風性」とは「仏性」のことだと思われます。

仏教では、すべての人に仏になる為の性質(仏性)を持っているとされ。

全ての人に仏性があるなら、私たちは初めから仏であるはずであり。

それなのに、なぜ仏になる為の修行しないといけないのか?

僧はこのような意味をこめて、風はどこにでもあるのに、なぜ扇を使うのか、

と質問したと思われます。

それに対して、宝徹禅師はただ扇を使うのみでした。

つまり、私たちは仏性があることが分かっていても、

実際に仏性を発揮しないと仏性は輝いてこないのです。

宝徹禅師はこの事を教えたかったのだと思います。

日蓮聖人はこの発揮している仏性を「仏種」と言っております。

仏種とは、植物の種子を、仏となる為の種に譬えたものです。

では、「仏性」と「仏種」は何が違うのか?

少しややこしいですが、仏性は「初めから備えている能力」

仏種は「縁によって変化し続けるもの」

簡単に言えば、「日々の生活で常に変化するもの」です。

また日蓮聖人は仏種の授かり方を様々な御遺文に残されていますが、

その中の一つである『秋元御書』には次のお言葉が書かれています。

「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」

つまり、今この世に生きる私たちはお題目を唱えることによって

仏種を授かることができ、成仏することが出来る

ということです。

なので日蓮聖人はよくお題目を唱えなさいと言われています。

ですので、私たち日蓮門下信徒はお題目を唱えることを

大事にしなければならないのです

少し長くなってしまいましたが、ここまでお付き合い頂きありがとうございます。

それではこれで月の挨拶とさせて頂きます。

 

 

合掌